Mag-log in彼は最後の数メートルを一気に詰めると、私を抱きしめた。
いや、衝突したと言ったほうがいいくらいの勢いだった。「……っ!」「馬鹿野郎……! 外に出るなと言っただろう!」 怒鳴り声。 でも、私を抱きしめる腕は、肋骨がきしむほど強く、そして小刻みに震えていた。「無事か……怪我はないか……!」 彼の大きな手が、私の肩や背中、腕をせわしなく撫で回し、傷がないかを確認している。「う、うん……大丈夫……」「よかった……本当に、よかった……」 征也は私の濡れた髪に顔を埋め、深く、長く息を吐いた。 雨の匂いに混じって、彼の匂いがする。 ムスクと、煙草と、そして焦燥の匂い。 熱い。 彼の体温が、濡れたシャツ越しにけれど、征也は車椅子のハンドルを握る手に力を込めすぎないよう、意識して指を緩めた。 莉子が空を見たいと言った。 なら、まずは空を見せる。 手を出すのは、その後でいい。 少し離れたベンチでは、陽向がスマートフォンを耳に当てていた。「……分かった。今日は店に寄る。無理すんなって、お父さんにも言っといて」 声は低くなったが、話し方はどこか柔らかい。 電話を切った陽向は、こちらの視線に気づくと、照れくさそうに眉を寄せた。「見んなよ」「見てないわ」 莉子は即答した。「声が優しかったなと思っただけ」 陽向は耳まで赤くなり、そっぽを向いた。 結衣はその横で、イヤホンを片耳だけ外して笑っている。スマートフォンの画面には、レイの新しいライブ映像が流れていた。以前のように、画面の向こうの相手を自分のものにしたいという熱はない。 ただ、知らない街の小さなステージで歌う誰かの自由を、少し眩しそうに眺めている。「結衣」 莉子が呼ぶと、結衣はすぐに顔を上げた。「なに、ママ」 その呼び方に、莉子はまだ時々泣きそうになる。「今度、その人の歌を聞かせてね」 結衣は一瞬だけ目を丸くし、それから、照れたように笑った。「うん。……でも、泣くかも」「いいよ。泣きながら聞こう」 征也が、少し困ったように二人を見る。「病室で大音量は許可しない」「誰も大音量とは言ってないでしょう」 莉子が呆れた声を出すと、陽向が肩を震わせて笑った。 その笑い声につられて、結衣も笑う。 征也は不本意そうに眉を寄せたが、口元だけは僅かに緩んでいた。 中庭の風が、四人の間を通り抜ける。 カサブランカの香りも、消毒液の匂いも、ここにはない。 代わりに、土の匂いと、若葉の匂いと、どこかの病室から運ばれてきた昼食の出汁の匂いがした。 莉子は膝の上の手を見つめた。 まだ細く、頼りない手。
「寂しくなかったわ」 莉子は、息を整えながら言った。「みんなが、たくさん話してくれたから」 征也は、莉子の手を額に押し当てた。「俺は……お前に、謝らなければならないことが」「うん」 莉子は、弱く頷いた。 征也が言葉を失う。 莉子の瞳は、昔と同じ柔らかさを湛えていた。けれど、そこに何も知らない無垢さはなかった。長い眠りの向こうで声を聞き、温度を覚え、家族の痛みを受け取ってきた人の静かな深さがあった。「叱ることは、たくさんあるよ」 征也の喉が震えた。 莉子は、ほんの少しだけ口元を上げる。「陽向と結衣のこと。私を一人で閉じ込めたこと。自分だけで全部抱えようとしたこと。……たぶん、数えたら一日じゃ足りないね」「……ああ」 征也は、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま頷いた。「全部、聞く」「本当に?」「本当だ」「途中で社長の顔にならない?」 その言い方が、あまりにも昔の莉子だった。 陽向が、思わず小さく吹き出した。結衣も涙を拭いながら、笑いと嗚咽の間のような声を漏らす。 征也だけは笑えなかった。 幸せが怖すぎて、どう笑えばいいのか忘れてしまったような顔をしている。 莉子は、その頬に指を添えた。「でも、まずは」 弱々しい声が、病室の中心へ落ちる。「おかえり、私だけの魔王」 征也は、もう一度崩れた。 それは、すべてを許す言葉ではなかった。 それでも、長い夜の向こうから差し出された、小さな灯だった。 医師が静かに、今日はここまでにしましょう、と告げる。 莉子の身体はまだ目覚めたばかりで、すぐに疲れてしまう。再び眠りに落ちることもある。長いリハビリが必要になる。十二年の空白は、奇跡一つで埋まらない。 それでも、誰も落胆しなかった。 莉子は生きて、見て、聞いて、名を呼んだ。 それだけで、天道家の止まっ
陽向は、笑おうとして失敗した。「遅いよ、母さん」 責めるような声なのに、泣いていた。「本当に、遅い」 莉子の目尻から涙が零れる。 腕を伸ばそうとする。けれど、上がらない。長い眠りの中で衰えた身体は、母として抱きしめたい願いに追いつかなかった。「ごめんね」 莉子の声が震える。「抱きしめてあげられなくて、ごめんね」 その瞬間、陽向が膝をついた。 ベッドの高さに合わせるように身を屈め、母の腕の下へ自分から入っていく。結衣も堪えきれずに駆け寄り、莉子の肩口へ顔を埋めた。 莉子の腕は、二人を包むには弱すぎた。 だから、陽向と結衣の方から、母の腕の中に入った。「母さん」 陽向の声は、子供の頃に戻ったように震えていた。「俺、ずっと……何言えばいいか、分かんなかった」 莉子の指が、陽向の髪に触れる。 かつて撫でた少年の髪ではない。硬くなった、大人の髪だ。それでも、莉子の手つきは迷わなかった。「大きくなったね」「それ、今言う?」 陽向が泣き笑いのように顔を歪める。 莉子は少しだけ笑った。「今しか、言えないもの」 結衣は、母の胸元にしがみついたまま、子供のように泣いていた。「ママ」 息が詰まり、言葉が途切れる。「胸が、痛かったの。ずっと。どうしたらいいか分からなくて、パパのことも、好きな人のことも、自分のことも、全部分からなくて」 莉子は、動く範囲で結衣の髪を撫でた。「うん」 ただ、それだけだった。 けれど結衣には、その一音で十分だった。「よく頑張ったね」 結衣の泣き声が、病室に溢れた。 征也は、その光景を見ていた。 莉子が子供たちに触れている。 十二年間、金を積んでも、命令しても、祈っても叶わなかった光景が、今、目の前にある。 征也は口元を覆った。 泣き声を抑えようとして、抑えきれなかった。 莉子が、
「天道様。奥様は、反応されています。まだ状態は不安定です。ですが……意識の回復が始まっている可能性があります」 可能性。 たったそれだけの言葉で、征也の胸は壊れた。 処置が終わり、莉子の口元を覆っていた器具が一時的に軽い酸素マスクへ替えられる。すぐに長く話せる状態ではない。医師は短く説明し、無理をさせないようにと何度も念を押した。 征也は頷いているつもりだった。 けれど、実際には何も聞こえていなかったのかもしれない。 莉子が、彼を見ていた。 それだけで、十二年分の世界が一度に戻ってきた。「……泣かないで」 空気が擦れるような声だった。 征也は固まった。 莉子の唇が、もう一度、かすかに動く。「征也くん」 その呼び方に、征也は完全に崩れた。 声にならない声が喉から漏れる。魔王と呼ばれ、冷酷な支配者として恐れられ、どんな場でも膝を折らなかった男が、ベッドの脇で声を殺して泣いた。「莉子……莉子、莉子……」 名前を呼ぶことしかできない。 それ以外の言葉は、すべて涙に溶けてしまった。 莉子の視線が、征也の濡れた頬をゆっくりなぞる。 腕を上げようとして、途中で力が抜けた。征也は慌ててその手を支え、自分の頬へ押し当てる。 莉子の指先は、まだ驚くほど細く、頼りなかった。 けれど、そこには確かに彼女の意志があった。「聞こえてた」 莉子は、ひと息ごとに言葉を落とした。「ぜんぶ、じゃ……ないけど」 征也は息を詰めた。「声が、したの。低くて、怒ってるみたいで……でも、いつも、泣きそうな声」 莉子の瞳に、薄く涙が滲む。「毎日、話してくれたでしょう」 征也は、何度も首を横に振った。 違う、と言いたかった。あれは自分勝手な独白だった。返事がないことに甘えて、莉子に縋り、自分
スピンオフ第183話:おかえり、私だけの魔王① 征也は、最初、それを錯覚だと思った。 十二年も待ち続けていれば、人は都合のいい幻をいくらでも見る。指先が動いた気がする。まぶたが震えた気がする。声にならない声が、自分の名前を呼んだ気がする。 そのたびに、征也は期待して、すぐに自分を戒めた。 奇跡などない。 数字は冷たく、医師の説明は慎重で、朝はいつも何事もなかったようにやって来る。 だから、莉子の指が掌の中でかすかに力を帯びた時も、征也はすぐには顔を上げなかった。「……また、俺の都合のいい夢か」 掠れた声で呟く。 だが、次の瞬間。 莉子の指が、もう一度、征也の手の内側を弱く押した。 それは、反射にしては遅く、偶然にしては確かだった。 征也の呼吸が止まる。 顔を上げるまでの一秒が、ひどく長かった。 ベッドの上で、莉子の睫毛が震えている。病室の淡い朝の光を受けたその睫毛は、薄い影を白い頬に落としながら、何度も、何度も、小さく揺れた。「莉子」 声が出たのか、自分でも分からなかった。 扉の外で、陽向が弾かれたように一歩踏み出す。結衣がその腕を掴み、二人は息を詰めたまま病室の中を見つめた。 莉子のまぶたが、ゆっくりと持ち上がる。 眩しさに耐えきれないように、瞳が細く震えた。 琥珀色の瞳。 十二年間、征也が夢の中で何度も見た色だった。 その瞳が、ぼやけた天井を映し、白い照明を映し、やがて、涙で濡れた征也の顔を捉えた。 征也の身体から、力が抜けた。 膝が床に落ちる。椅子が後ろへずれ、かすかな音を立てる。だが、征也の手は莉子の手を離さなかった。離せるはずがなかった。「……莉子」 今度は、声になった。 喉の奥から絞り出した名前が、病室の白い空気に溶けていく。 莉子の唇が動いた。 乾いた唇は、すぐには言葉を作れない。呼吸の管に支えられてきた身体は、長い眠りから急に戻されたばかりで、声
莉子は眠ったままだ。 「だから……一度でいい」 征也の喉から、子供のような息が漏れた。 「一度でいいから、俺の名前を呼べ」 その瞬間、病室の扉の外で、小さな衣擦れの音がした。 征也は気づかなかった。 扉は、完全には閉まっていなかった。看護師が出入りした時に、ほんの指一本分だけ隙間が残っていたのだ。 その向こうで、陽向と結衣が立ち尽くしていた。 陽向は、握っていたスマートフォンの電源を落とすことも忘れていた。画面には父からの短いメッセージが残っている。 ――莉子に変化があった。まだ確定ではない。来られるなら来い。 命令のようでいて、初めて共有された弱さだった。 陽向は、扉の隙間から見える父の背中を見つめた。 かつては壁のように巨大だと思っていた背中が、今はベッドの脇で折れ曲がっている。莉子の手に縋りつき、顔を上げることもできず、何度も、何度も謝っている。 陽向の胸に、長く張りついていた硬いものが、ほんの少し形を変えた。 怒りは消えない。けれど、目の前の父は、初めて弱い人間の顔をしていた。 そう分かったからといって、陽向の中の怒りがすべて消えるわけではなかった。十二年の孤独は、たった一夜の懺悔で帳消しにできるほど軽くない。 それでも、父が怪物ではなく、怪物のふりをしなければ立っていられなかった人間だったのだと、初めて思った。 隣で、結衣が両手で口元を覆っている。 涙が、指の隙間から零れていた。 理想の父。完璧な父。どんな願いも叶えてくれる、強くて冷たい魔王。 その幻が、音もなく崩れていく。 崩れた下にいたのは、莉子の名を呼ぶことしかできない、不器用すぎる夫だった。 結衣は胸の奥を押さえた。 レイに拒まれた夜の痛みが、遠い場所で微かに疼く。 あの時の自分も、相手を見ているつもりで、本当は自分の寂しさばかり見ていたのかもしれない。 唇を噛むと、涙の味がした。 病室の中で、征也はまだ莉子の手を握っていた。 「戻ってこい、莉子」 声は、もう命令で
彼の肩が震えている。 あの傲慢で、自信に満ち溢れていた「天道征也」の姿はどこにもない。 ただ、大切な人を傷つけてしまった後悔に苛まれる、一人の男がいるだけだ。「違うよ。……あなたが来てくれたから、助かったの」 私は、自由なほうの手を伸ばし、彼の乱れた髪に触れた。 ごわごわしていて、少し汗の匂いがする。 でも、それが愛おしい。「あなたが『逃がさない』って言ってくれたから……私、頑張れたんだよ」「……莉子」
窓ひとつない密閉された部屋に、重たく湿った衣擦れの音が響く。 歩くたびに足元でシュ、シュ、と鳴る乾いた摩擦音は、まるで降り積もった枯れ葉の上を踏みしめているようで、背筋が寒くなった。「……うん、やっぱり素敵だよ。莉子ちゃん」 神宮寺蒼が、ほう、と熱っぽい息を吐き出す。 眼鏡の奥で細められた瞳は、私を見ているようでいて、どこか透き通って焦点が合っていない。彼が見ているのは生身の私ではなく、自分が丹精込めて作り上げた『作品』としての私なのだと肌で感じる。 壁に掛けられた鏡の中に、見知らぬ女が映っていた。
「嫌なら外してみろ。違約金をすべて払って、この部屋から出て行けばいい」 試すような響き。 そんなことができるはずがないと知っていて、私を追い詰めているのだ。 母の命も、これからの暮らしも、すべては彼の手のひらの上にある。 この首輪を外すことは、生きることを投げ出すのと同じ意味を持っていた。「……できません」「聞こえないな」「……外せません。私は……あなたの、持ち物ですから」 屈辱に視界が滲む。 けれ
翌朝。 カーテンの隙間から差し込む光は白いのに、昨日の夜、氷で冷やされたはずの足首だけが、まだ芯が燻っているみたいに熱い。 洗面台の鏡を覗く。髪をかき上げると、うなじに残された赤い鬱血痕が、白い肌の上でやけに生々しく主張していた。指先でなぞると、そこだけ微熱がある。 糊の効きすぎた家政婦の制服に袖を通す。肌を擦るゴワついた感触が、何度も私を現実に引き戻した。 割り切らなきゃいけない。これは母さんの命を救うための仕事だ。 それなのに、頭のどこかで、昨夜の征也の体温を反芻している。私の足に額を寄せた時の、あの飢えたような視線が皮膚に張り付いて消えない。◇ 一階へ降りると、広







